古墳時代に勃発した蘇我氏と物部氏による丁未の乱(ていびのらん)以降、蘇我氏一族が大臣として権力を握って行きます。崇峻天皇亡き後(蘇我馬子による暗殺)、日本初の女帝となる推古(すいこ)天皇(36年間在位)を立てます。推古天皇は甥である聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子に立て摂政として政治を任せました。聖徳太子は「崇仏・廃仏論争」と「丁未の乱(ていびのらん)」を通して醸成した、独自の三教融合思想(敬神の詔)に基づき、冠位十二階、十七条憲法を制定、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王(天皇)・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築きました。
また、小野妹子(おののいもこ)らを隋に遣隋使として遣わして、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めました。
聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇の没後、蘇我蝦夷(そがのえみし)は聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)ではなく田村皇子(たむらのおうじ)を舒明(じょめい)天皇としました。朝廷は蘇我氏の独裁体制となります。
蘇我蝦夷は、冠位十二階の制に反して朝廷の許可もとらずに、息子の蘇我入鹿(そがのいるか)に自分の紫冠を授け、大臣にしてしまいました。
蘇我氏の独裁体制をよく思っていなかった中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と伴に、新羅・百済・高句麗の3カ国の使者を迎える「三国の調」の儀式で、蘇我入鹿の暗殺に成功します。翌日には蘇我蝦夷は自分の屋敷に火を放ち、自害してしまいました。皇極(こうぎょく)天皇は退位し、孝徳(こうとく)天皇へ天皇の位を譲りました。そして、中大兄皇子は皇太子となります。この政変を「乙巳(いっしのへん)の変」いいます。
こうして発足し新政権は、蘇我氏による独裁体制を許してしまった氏姓制度の廃止と、律令制にもとづいて天皇に権力が集中する中央集権国家(律令国家)を目指したのです。この政治改革が「大化の改新」です。政変後、孝徳天皇により「改新の詔」が発布されます。
「改新の詔」は、「大化の改新」の基本方針を示したものでした。以降の政権はその方針に基づいた施策を実践し、中央集権国家(律令国家)の実現を目指していきます。さらに白村江の戦い(はくすきのえのたたかい 、はくそんこうのたたかい)の敗北を経験し、国防と外交の強化も加味されて実践されていきます。以下その経緯を時系列で簡単に紹介いたします。
孝徳天皇は、中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めました。また東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じました。
孝徳天皇が没後は皇極天皇を、斉明(さいめい)天皇としてを即位させ、中大兄皇子は皇太子の地位で政務に当りました。白村江の戦いで敗北後、日本列島の各地に防衛施設を造り始めます。
中大兄皇子が天智(てんち)天皇として即位し、全国的な戸籍作りに着手し、人民を把握する国内政策も推進しました。
天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と、息子である大友皇子(おおとものおうじ)との間で争いが起こり、「壬申(じんしん)の乱」が勃発しました。この戦いは、地方豪族のまとめ最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武(てんむ)天皇となった。
天武天皇は、天皇専制と皇親政治により中央集権的な国家体制の整備に努めた。律令の編纂を開始しました。公地公民制を実施し、寺社や豪族の土地や民の私有制が廃止され、すべて天皇の所有とし、国郡制と官制改革により中央集権体制を整えました。『古事記』『日本書紀』編纂事業を開始と言われます。
天武天皇の没後、皇后の持統(じとう)天皇は天武天皇の政策を継承し、飛鳥浄御原令を制定します。また、人民支配のための本格的な戸籍の庚寅年籍が造られ、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施します。日本初の本格的都城となる藤原京に遷都します。
持統天皇は、孫である文武(もんむ)天皇を即位させる。694年には日本初の本格的都城となる藤原京に遷都します。この間、唐の律令制度を基本に、律令にもとづいた政治を実施するために、大宝律令が制定されました。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成します。中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになりました。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになります。これをもって、一応の古代国家が成立し、倭に代えて『日本』を国号を定め、702年に粟田真人(あわたのまひと)ら遣唐使を派遣して武周にこれを伝えました。
