飛鳥時代

 聖徳太子蘇我馬子推古天皇の没後、蘇我蝦夷(そがのえみし)は聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)ではなく田村皇子(たむらのおうじ)舒明(じょめい)天皇としました。朝廷は蘇我氏の独裁体制となります。

 蘇我蝦夷は、冠位十二階の制に反して朝廷の許可もとらずに、息子の蘇我入鹿(そがのいるか)に自分の紫冠を授け、大臣にしてしまいました。

 孝徳天皇は、中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めました。また東国等の国司に戸籍調査田畑の調査を命じました。

  孝徳天皇が没後は皇極天皇を、斉明(さいめい)天皇としてを即位させ、中大兄皇子は皇太子の地位で政務に当りました。白村江の戦いで敗北後、日本列島の各地に防衛施設を造り始めます。

 中大兄皇子が天智(てんち)天皇として即位し、全国的な戸籍作りに着手し、人民を把握する国内政策も推進しました。

 天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と、息子である大友皇子(おおとものおうじ)との間で争いが起こり、「壬申(じんしん)の乱」が勃発しました。この戦いは、地方豪族のまとめ最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武(てんむ)天皇となった。