遣隋使と遣唐使

 遣隋使と遣唐使は、先進国である隋や唐から先進技術や文化を求めて、西暦600年頃から894年のおよそ300年間、計23回に渡り日本から遣わされた。

 唐風の条坊制を採用した藤原京の完成と、大宝律令にる律令制が整い始めた702年の大宝の遣唐使以降、政治制度よりも、仏教、芸術、文学といった文化の吸収に重きが置かれるようになりました。この時期には、多くの留学生や留学僧が長期間現地に滞在し、最新の知識を身につけて帰国しました。彼らが持ち帰った知識は、奈良時代の政治・文化(天平文化)に大きな影響を与えました。また、東アジアでの日本の地位確保をめざす政治外交上の使命も重要となったが、のちには貿易利益の獲得も目的とするようなっていきます。

 唐との交易は遣唐使事業だけでしたが、9世紀頃になると、唐や新羅の商人による民間貿易が盛んにおこなわれるようになります。物資だけでなく、最新の情報も、これら商船を通じて入手できるようになりました。朝廷はこうした商船の来航を管理するために、大宰府に「鴻臚館(こうろかん)」という外交および海外交易の施設を整備しました。

 874年頃から約10年間にわたって続いた唐国内の農民反乱は、全土を巻き込み「黄巣の乱(こうそうのらん)」を引き起こします。唐による統治は壊滅し、海路の危険性に加えて陸路の安全保障をも確保できなりました。894年の菅原道真の提言によって派遣計画が延期・中断され、907年の唐王朝は滅亡により遣唐使は実質廃止される。

遣唐使の命がけの渡海

 初期の頃は、朝鮮半島の沿岸を伝って進む「北路」で比較的安全でしたが、朝鮮半島の国々(新羅など)との関係が悪化したことで、東シナ海を横断する「南路」で唐を目指すこととなり遭難のリスクが飛躍的に高まりました。

 また、遣唐使は通常4隻編成で航行され、1隻に100人程が乗船していた。横波に弱い平底船が使用され、航海技術も未熟で風任せの命がけの渡海であった。8世紀の遣唐使のうち、全ての船が往復出来たのは、たった一回だけだった。

 鑑真一行が日本を目指し乗り合わせた752年の帰路は、帰国便4隻のうち大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)の船が南方マレー半島まで暴風に流され、漂着後に乗船者約200人の大半が殺害されたという。鑑真は、日本への渡海を5回試みましたが、妨害や難破によりいずれも失敗します。6度目の渡海でやっと来日することができました。

有名な遣唐使

 最澄:天台教学を学び、多くの経典を日本に持ち帰りました。最澄が比叡山に開いた延暦寺は、後に多くの鎌倉仏教の祖(法然、親鸞、日蓮など)を輩出する「日本仏教の母山」となります。

 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ):、奈良時代に派遣され「科挙(かきょ)」に合格して唐の役人になりました。皇帝・玄宗に気に入られ、高い地位にまで上り詰めましたが、帰国の許可が得られず、ようやく許し得て出船したものの、暴風雨でベトナムに漂着し、結局日本に帰ることは叶わず、唐の地で生涯を終えました。