平安時代

 奈良時代に始まった律令制の根幹は、戸籍・計帳によって人民を把握し、課税の対象とする人別支配であった。しかし、奈良時代後期(8世紀後期)ごろから、課税から逃れたい人民らの偽籍・逃亡・浮浪が次第に顕著となっていった。

 平安前期には、人民内部で少数の富豪層と大多数の貧困層(一般百姓層)へと階層の二極分化が進んだ。富豪層は皇族、有力貴族と墾田開発などを通じて関係を結び、一般百姓層を自らの影響下へ置き始めていた。一般百姓層は富豪層の影響下に入ることで、偽籍・逃亡・浮浪をより容易なものとし、人別支配に基づく課税制度は破綻を迎えるようになった。

 政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。地方に土着した貴族や富豪層は、より一層経済力をつけていった。富豪層と一般百姓層の格差はますます増大し、一般百姓は次第に富豪の支配下に組み込まれていった。富豪層は、自衛のために武装し、武士へと成長していった。

 奈良時代末期の770年に称徳(しょうとく)天皇が崩御し、天智天皇系の光仁(こうにん)天皇が60歳前後という高齢ながら即位し、光仁天皇崩御後には桓武(かんむ)天皇が即位した。桓武天皇は、新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていった。その一環として桓武天皇は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(延暦13年、794年)を断行した。平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられている。また、王威の発揚のため、東北地方の蝦夷(えぞ)征服に傾注し、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍として蝦夷征服に活躍した。

 桓武天皇の次代の平城(へいぜい)天皇は弟の嵯峨(さが)天皇に譲位した後も執政権を掌握し続けようとしたが、嵯峨天皇との間に対立が深まり、最終的には軍事衝突により嵯峨天皇側が勝利した(大同5年/810年、薬子の変)。この事件以降、12世紀中葉の平治の乱まで中央の政治抗争は武力を伴わず、死刑も執行されない非武力的な政治の時代が永らく続くこととなった。嵯峨天皇治世初期は、藤原園人(ふじわら の そのひと)により、百姓撫民(貧民救済)そして権門(有力貴族・寺社)抑制の政策がとられた。これは、律令の背景思想だった儒教に基づく政策であったが、園人の後に政権を握った藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)は一変して墾田開発の促進を政策方針とした。律令制の根幹は人別課税だったが、冬嗣は土地課税を重視し、かつ権門有利を志向した。

 冬嗣の子藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂関となり、初期の摂関政治が始まった。当時、課税の対象だった百姓らの逃亡・浮浪が著しく、租税収入に危機が迫っていた。冬嗣・良房は墾田開発を促進し、土地課税に転換することで状況に対応しようとしたのである。良房は、政治権力の集中化も進めていき、応天門の変(貞観8年/866年)で、政敵となる貴族を排斥したことで藤原氏の権力拡大と摂関政治が確立されていきます。良房執政期を中心とした時期は、政治も安定し、貞観の治と呼ばれている。良房の養子、藤原基経(ふじわらのもとつね)もまた、良房路線を継承し土地課税重視の政策をとった。基経は畿内に設定した官田の収益を行政経費に充てる施策を行った。

 白河天皇に続く鳥羽(とば)上皇も専制を展開し、伊勢平氏を用いて日宋貿易に力を入れた。また、荘園公領制により各地の荘園を集積し経済的な支配力も強めていった。荘園公領制の進展に伴い、有力貴族などが特定の国の租税収取権を保有する知行国制が実施されるようになった。知行国制により経済的利得権が権門勢家へ集中していった。