平安初期の中央文化は、当時の先進国である唐の影響を強く受けていた。
嵯峨(さが)天皇から清和(せいわ)天皇にかけての時期は、『凌雲(りょううん)集』などの漢文詩集が編纂されたり、唐風の書が流行るなど唐風の文化が花開いた。
桓武(かんむ)天皇の時代に平安仏教が興る。たとえば最澄は天台教学・戒律・密教・禅を学んで天台宗(天台法華宗)を開き、日本における仏教の総合大学と言えるような役割を果たすようになり、一方空海は密教を深く学び真言宗を開く。この二人が以降の日本の仏教の方向性を決定することになった。こうした仏教群が日本古来の信仰と融合する神仏習合が起き、本地垂迹説が現れた。この本地垂迹説は主に修験道を信じる人々の間で平安末期に広まった。
桓武天皇は中国の皇帝を模倣して郊祀(こうし)を行うなど、「中国志向」が強かったと考えられている。
平安中期ごろの唐の衰退により唐風化の波が沈静化すると、日本的な要素が前面へと現れてきた国風文化(貴族文化)が誕生する。特徴としては、摂関家の娘と天皇との婚姻で外祖父の藤原氏の女系が重視される女性の時代であった。平仮名・片仮名が発明され、日本語の表記が容易になり、『枕草子』や『源氏物語』に代表される和歌・貴族生活の日記・恋愛物語の女流貴族文学の隆盛などの国文学が繁栄した。また、衣冠束帯の衣服の登場(官服の国風化)、寝殿造等の和様建築の登場などの衣住文化の発達があった。
この時期、世の乱れや飢饉や疫病で多くの人々が死んでいく中、仏教の末法思想が民衆にも広く浸透していき、浄土思想・浄土教が勃興し、空也や融通念仏の良忍などの僧が民衆の中で活躍した。急速に拡大する浄土教は既存の仏教勢力の脅威となり、後の鎌倉時代にかけて幾度も対立を起こすことになる。
律令制の弛緩と藤原氏の台頭も相まって宮廷社会で御霊信仰が高まり、怨霊を回避するための陰陽道が天皇や公家の生活指針となっていた。
平安末期になると、『栄花物語』(えいがものがたり)、『大鏡』(おおかがみ)、『将門記』などの歴史物語・軍記物語などの時代を顧みる文学が芽生えた。後白河(ごしらかわ)上皇により、民衆の間に流行していた今様(いまよう)という歌謡を集成した『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)が編まれた。この時代の貴族と庶民の文化との深い関わりをよく示している。鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)筆と伝えられ、人々の様子を愛嬌のある、活き活きとした姿で描いた『鳥獣人物戯画』(ちょうじゅうじんぶつぎが)もこの時代の作品である。
天台宗の仏教・山岳仏教が日本各地へ広がる。豊後国東半島(富貴寺大堂など)や北陸(平泉寺など)や山陰の三仏寺投入堂などへは特に顕著な広がりを示す。
平安時代の神道は、律令制の弛緩に伴い、神祇官を介さずに天皇やその近臣が地方の神社の祭祀に直接関することが増え、神道が国家の祭祀制度として整備され、特定の神社の祭祀が国家の安定や繁栄を祈願する手段として機能しました。また、神道の祭りや儀式は、地域社会においても共同体の結束を強める重要な役割を果たす要素となりました。神仏習合の考え方が広まり、神道の神々が仏教の教義と結びつくことが一般的になりました。この時期、神道は単なる自然崇拝から、より体系的な信仰体系へと変化していきました。特に、仏教の影響を受けた祭祀や儀礼が行われるようになり、神道の信仰が多様化しました。
