崇仏廃仏論争は、6世紀の日本における仏教受容をめぐる宗教的・政治的対立であり、蘇我氏と物部氏の勢力争いは、丁未の乱(ていびのらん)を引き起こすことになります。
4世紀から5世紀にかけての朝鮮半島で争いを逃れるために、日本に渡ってくる渡来人が仏教を日本に持ち込んだため、庶民の間で知られるようになっていました(仏教伝来)。6世紀に百済の聖明王が欽明天皇(きんめい)に仏像や経典を贈ったことにより、仏教は公的に伝来しました(仏教公伝)。欽明天皇は仏像の見事さに感銘し、群臣に仏教に帰依すべきかと意見を聞きました。当時の日本は八百万の神を信仰する多神教社会であり、仏教は異国の宗教として受け入れられるかどうかが議論の対象となりました。
物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神(ばんしん)を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対
蘇我稲目(そがのいなめ)は「西国では皆が帰依しており日本だけ背くことはできない」と受容
意見が二分したことで欽明天皇は帰依を断念したが私的な礼拝や寺の建立は許可しました。帰依したいと申し出た蘇我稲目に仏像を授けた。蘇我稲目が飛鳥向原の私邸に仏像を安置し寺としました。これが、日本で初めて誕生したお寺(現:向原寺)でした。直後に疫病が流行すると、物部・中臣氏らは蘇我氏が蕃神(ばんしん)を拝んだことで国津神の怒りによる天罰が起きたと奏上し、欽明天皇もやむなく仏像の廃棄、寺の焼却を黙認します。物部・中臣氏らは寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てました。(廃仏毀釈)
しかしその後、天皇が住んでいた宮殿が突然火元不明の火事になったため、仏罰と考えた欽明天皇は、霊木を使って仏像を作らせ、改めて仏像を蘇我稲目に祀らせます。
仏教公伝から約30年後、欽明天皇は崩御し敏達(びだつ)天皇が即位します。敏達天皇は、物部守屋(もののべ の もりや)[物部尾輿の子]と蘇我馬子(そが の うまこ)[蘇我稲目の子]を重職に登用します。仏教に対する捉え方は親の代と変わらず、物部守屋は排仏の立場、蘇我馬子は崇仏の立場でした。
天皇が変わったことにより、百済から再び仏像が送られてきますが、仏像は欽明天皇のときと同様に蘇我氏(蘇我馬子)が預かり、仏像を祀る寺を作りました。このとき日本で初の僧が誕生し、3人の女性の僧が配置しました。
蘇我馬子は敏達天皇に仏教を説くための法会を行おうとすると、またしても疫病が流行ってしまいました。
物部守屋は、敏達天皇に「仏教を信仰しようとした為、また天罰が起こった」と、主張し、疫病を治めるために寺の破壊と仏像の廃棄の許可を取り、父の物部尾輿の時と同じ様に寺を焼き払い、仏像を大阪湾に捨て、さらに三人の尼僧には、むち打ちの処罰を与えました(2度目の廃仏毀釈)。さらに天然痘が広がりをみせ、物部守屋や敏達天皇までもが天然痘にかかってしまいます。そこで蘇我馬子は、病回復を仏に祈願するための法会を行うことの許可をとり、三人の尼僧と法会を行いました。しかしその甲斐なく、敏達天皇は天然痘が原因で崩御してしまいました。
皇位は敏達天皇の異母弟である用明(ようめい)天皇に継承されました。用明天皇は蘇我氏と非常に繋がりが深い天皇であったことから、崇仏思想を持っていました。
皇族とのつながりを強化し朝廷内で権力を持ち始めた蘇我馬子に、危機感を感じた物部守屋は、水面下で排仏派の味方を集める動きをしました。しかし用明天皇は自身の病気平癒の祈願として仏教の公認を進め、仏教に帰依しましたが、祈願の甲斐なく、即位後わずか2年で崩御してしまいました。
用明天皇の皇位継承をめぐり、物部守屋は、自身の軍を動かし穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させるための行動を起こそうしますが、その動きを察知した蘇我馬子は、河内国にあった物部守屋の舘に進軍しますが激しい抗戦にあい、蘇我馬子率いる軍は近寄ることができず、形勢不利な状態でした。
この争いに、馬子側に参戦していた厩戸皇子(うまやどのみこ)(のちに聖徳太子)は仏法の加護を得るために四天王像を作り、勝利すれば、この四天王像を安置するための四天王寺を建立し、仏法を世に知らしめると誓います。また、蘇我馬子も勝利すれば飛鳥の地に法興寺を構築すると祈願し、軍を立て直し進軍させました。蘇我氏側の勝利となります。蘇我馬子は親子二代で対立してきた政敵であった物部氏を完全に排除することに成功しました。丁未の乱(ていびのらん)
蘇我馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を崇峻(すしゅん)天皇として即位させることで権力の中心に立ち、その後の推古(すいこ)天皇代には、皇太子となった厩戸皇子(聖徳太子)と伴に仏教の国内浸透を本格化させていきます。
仏教は朝廷に公認され広く布教されることとなりました。この論争を通じて、仏教は単なる宗教としてだけでなく、中央集権的な律令国家形成や政治・文化の発展に影響を与える重要な役割を果たすことになりました。
