奈良時代の日本仏教は、鎮護国家の思想とあいまって国家の保護下に置かれていよいよ発展し、国を守るための法会や祈祷がさかんにおこなわれた。政府は平城京内に大寺院をたて、聖武天皇は、国分僧寺や尼寺を全国に建てさせ、東大寺の造営をおこない、東大寺廬舎那仏(とうだいじるしゃなぶつぞう)金銅像(大仏)の造立を発願し、国家の安泰を願った。
仏教の発展は、遣唐使にしたがって留学した学問僧たちの努力によるところが大きいが、唐出身の鑑真(がんじん)和上、大仏開眼供養の導師となったインド出身の菩提僊那(ぼだいせんな)ら、外国出身の僧侶の活動に負うところも大きかった。
朝廷は国教として仏教を保護するいっぽう、「僧尼令」などの法令によってきびしく統制し、僧侶になる手続きや資格をさだめて仏教の民間布教に制限を加えた。行基(ぎょうき/ぎょうぎ)のように禁令にそむいて民間への布教をおこない、弾圧されたものの灌漑設備や布施屋の設置、道路建設などの社会事業に尽力するなど、民衆の支持を集める僧侶もあった。行基は結局、その人気に注目した政府によって登用され、大仏建立に尽力したことで大僧正の僧位を得た。
また、持統天皇や光明(こうみょう)皇后など、多くの女性が仏教の発展に寄与しました。彼女たちは寺院の建立や仏像の制作、写経などを通じて、仏教の普及に貢献しました。特に光明皇后は、病人や貧しい人々のための施薬院を設立し、福祉事業に尽力しました。伝説の中将姫(ちゅうじょうひめ)もこの時代の人です。
一方、神道と仏教の信仰が調和し、神社の中に仏教寺院が建てられる「神仏習合」が行われました。この時代には、神道でも仏像に倣って神々の像を作るようになり、八幡新像などがその代表的なものでした。また、本地垂迹説が生まれ、八百万の神々は仏や菩薩の化身として現れたとする考え方も広まりました。古来日本では山中他界とされ、足を踏み入れることのなかった山中が、密教、陰陽道、神祇信仰など様々な要素の影響を受けて、修行場となりはじめた。その草創期の人物として役小角(えんの おづぬ / えんの おづの / えんの おつの)などが上げられる。
