日本三大怨霊

 非業な死を遂げた人間が死後怨霊として祟るという信仰形態があり、この祟りを避けるために呪術を行ったり神社に祀ったりしました。日本三大怨霊は平安時代の人物で、それぞれ神様として神社に祀られています。

 菅原道真:天満宮・菅原神社(学問の神様)

 平将門:神田明神など(除災厄除の神様)

 崇徳天皇:白峯神宮(厄除け・縁切りの神様

 菅原道真(すがわらのみちざね)

 菅原道真(845年~903年)は平安時代中期の学者で政治家としても活躍した人物です。

 学問や詩歌の才能にあふれ、神童と呼ばれた彼は、学者・漢詩人・政治家として活躍。ついには朝廷の最高職である右大臣になりました。

 学問や詩歌の才能にあふれ、神童と呼ばれた彼は、学者・漢詩人・政治家として活躍。ついには右大臣にまで昇り詰めました。しかし、道真に嫉妬した左大臣の藤原時平が、醍醐天皇に菅原道真は天皇を廃帝させる陰謀を企てていると伝え、道真は無実の罪で大宰府に送られてしまい、失意のうちに亡くなりました。

 【菅原道真の怨霊伝説】

 道真の死後、藤原時平をはじめ藤原氏の一族が次々に亡くなります。さらに都の清涼殿に雷が落ち、数人の貴族が死亡する大惨事が発生。そのショックで醍醐天皇も病死してしまいました。これらは後に道真の怨霊によるものだとし、京都府の北野天満宮や福岡県の太宰府天満宮で、菅原道真の怨霊を神として祀ることでたたりを鎮めようとしました。はじめのころ、菅原道真は落雷をもたらす怨霊だったことから雷神として扱われ、天神様と呼ばれていました。しかし時がたつと怨霊であったという認識は薄まり、学問の才能に秀でていたことから学問の神様として崇められるようになります。その結果、天満宮は全国に広まりました。

 平将門(たいらのまさかど)

 平将門(?~940年)は、平安時代中期の武士。

 都で天皇に仕えたのち、故郷である関東へ戻り、8つの国を武力で制圧しました。力を増した将門は朝廷と対立し、東国の新皇を名乗ります。しかし将門の乱を起こした翌年、朝廷の命を受けた藤原秀郷や平貞盛によって倒されました。

 平将門を神様として祀っているのが、東京都大手町の神田明神。もともとは730年に大黒様と恵比寿様を祀って創建された神社ですが、すぐ近くの将門塚周辺で天変地異が頻発し続けたため、1309年に将門を神様として祀りました。関ヶ原の戦いの際には徳川家康が神田明神で戦勝のご祈祷をし、見事に天下統一を果たしました。

 【平将門の怨霊伝説】

 討ち取られた平将門の首は京へと送られ、都の河原で日本初のさらし首になりました。しかし平将門の首は数ヶ月たっても目を閉じず、「体よ戻って来い。再び戦をしようではないか」と話し、夜中に歯ぎしりをしたという噂が広ます。最後に首は体を求めて関東へ飛んでいき、到着した場所が東京都の大手町だとの伝説もあります。将門塚として祀られています。

 徳川幕府が江戸城を築くにあたり、この場所に直面することになります。幕府は将門の怨霊を恐れ、首塚を壊すことなく保護しました。これは「首塚は決して動かしてはならない」という信仰を幕府が公的に承認した形となり、人々の恐怖心を一層強めました。//近代でも、将門の怨霊はたたりを起こし続けました。

 関東大震災で大蔵省庁舎が全焼したため、仮設庁舎を首塚のある場所に建てたところ、当時の大蔵大臣をはじめ関係者が次々と亡くなり、庁舎は取り壊されました。

 第2次世界大戦後にGHQが駐車場を作るために首塚を取り壊そうとしたところ、重機が横転する事故も発生しています。

 崇徳天皇(すとくてんのう)

 崇徳天皇(1119年~1164年)は、平安時代末期に5歳で即位した天皇。しかし実権を持つ鳥羽上皇の実の息子ではないという噂があったため、上皇となった後も政治を任されることはありませんでした。そこで弟の後白河天皇から権力を奪おうと保元の乱を起こし、失敗。出家しても許されず、讃岐国へ流罪になって8年後に亡くなりました。

 崇徳天皇を主祭神として祀っているのは、京都府の安井金比羅宮で、崇徳天皇が保元の乱に向かう際に、欲や未練を断ち切るために祈った場所。そのため縁切り神社として知られています。男女の悪縁だけでなく、病気や酒、たばこ、賭博などの悪縁も断ち切ることができるといわれています。

 京都の白峯神宮は、明治維新の2日前に創建された神社です。鎌倉時代以降700年間ぶりに天皇に実権が戻ってくる前に、崇徳天皇の呪いを解く必要があったからです。これは朝廷にとってはそれほど重い呪いだったのです。

 【崇徳天皇の怨霊伝説】

 後白河天皇を深く恨んだ崇徳天皇は、日本一の大魔縁(妖怪)となって復讐すると誓い、亡くなりました。その後、京都では延歴寺の強訴や安元の大火などの厄災や事件が発生。さらに後白河天皇の身内も次々と亡くなります。さらには鎌倉幕府が誕生して後白河天皇の権力も失墜。このように崇徳天皇の災いは後白河天皇が亡くなるまで止まらなかったそうです。