奈良時代には、全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。前時代の飛鳥文化も仏教の影響を多分に受けた文化であるが、朝鮮半島経由で伝来した仏教と大陸(唐)に遣唐使として学僧を派遣して得た仏教の教義、知識では、能動的であった分、仏教が文化、政治へ与えた影響は大きい。一方、中央では、天武・持統の直系子孫の皇位継承の不安定さによる政争が多く起こり、地方(東北)では蝦夷との戦争が絶えなかった。
皇位は、天武天皇と持統天皇の直系子孫によって継承されることが理想とされ、天皇の神聖さを保つ観点から、近親婚が繰り返された。その結果として、天武天皇と持統天皇の直系の皇子の多くは、病弱であり、相次いで早死にした。そのような天武・持統の直系子孫による皇位継承の不安定さが、8世紀におけるさまざまな政争を呼び起こし、結果として、天武・持統の直系の断絶・自壊へとつながった。
この時代の初め、中臣鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。不比等死後に政権を担当したのは、天武天皇の孫にあたる長屋王(ながやおう)であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため、三世一身法(さんせいっしんのほう)を施行して開墾を奨励した。不比等の娘藤原宮子を母とする聖武(しょうむ)天皇が即位したころから、不比等の子武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の藤原四兄弟が政界に進出した。左大臣にのぼった長屋王は藤原四兄弟に謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれる(長屋王の変)。政権を手にした藤原四兄弟は、不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。
藤原四兄弟が天然痘の流行で相次いで死亡すると、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)が吉備真備(きびのまきび)や僧玄昉(げんぼう)を参画させて政権を担った。これを不満とした宇合の長男藤原広嗣(ひろつぐ)は、九州で挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。この反乱に中央政府は動揺し、聖武天皇は転々と都をうつした。相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。かねてより厚く仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想により、社会の動揺をしずめようと考え、国分寺建立の詔、盧舎那大仏(るしゃなぶつ)造立の詔を発した。これにより東大寺大仏がつくられた。
この間に光明皇后の信任を得た藤原仲麻呂(なかまろ)(武智麻呂の子)が台頭、仲麻呂は独裁的な権力を手中に、傀儡(かいらい)として淳仁(じゅんにん)天皇を擁立。みずからを唐風に恵美押勝(えみのおしかつ)と改名すると、儒教を基本とする中国風の政治を推進したが、今度は孝謙(こうけん)上皇の寵愛を得た僧道鏡(どうきょう)が頭角を現す。押勝はこれを除くために反乱を起こして敗死した(藤原仲麻呂の乱)。これにより、淳仁天皇は廃され、淡路に流された。
道鏡は、太政大臣禅師、法王となって、一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、西大寺の造立や百万塔の造立など、仏教による政権安定をはかろうとした。称徳(しょうとく)天皇(孝謙上皇が復位)と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったとして、道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、藤原百川(ももかわ)や和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳天皇の没後に失脚した(宇佐八幡宮神託事件)。藤原百川らは光仁(こうにん)天皇を擁立し、光仁天皇はこれまでの天武天皇の血統ではなく、天智天皇の子孫であった。光仁天皇は、官人の人員を削減するなど財政緊縮につとめ、国司や郡司の監督をきびしくして、地方政治の粛正をはかった。しかし、陸奥国で伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱がおきるなど、東北地方では蝦夷の抵抗が強まった。光仁天皇の長男の桓武(かんむ)天皇は、肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、長岡の地に新たな都(長岡京)を造成したが、わずか10年後の延暦13年(794年)、平安京へ改めて遷都した。元明天皇の平城京遷都(710年)からわずか84年間に起きた出来事です。
